子育てと仕事と家事と…

3足のわらじを果敢に履きこなそうとする日々の記録

愛することは難しい

ブログを書きたいと思いながら随分と日が経った。

書いておきたかった事がちょっとぼんやりしてきちゃったけど、、、気持ちを思い出しながら書いておきたい。

10代後半から20代前半にかけて、とっても遊んでばかり、親に心配かけてばかりの時期だったと思う。ライブハウスへ夜な夜な出かけては帰宅しない、彼氏のバイクに乗りドライブ、その影響でバイクの免許を取り1時間半かけて大学までバイク通い。ホッケーを始める。毎晩遅くまで練習三昧。20歳になった時に家を出て、同棲スタート。成人を記念して初めての海外旅行はインドへ2週間。そして22歳で病気になり入院。ちーん。

本当に自分のやりたいようにやってきた。病気になったことで、こういう自分の自分勝手な行いがSLEという病気を招いたし、死にかけたし、周りにすごく心配をかけたと思ってきた。だから自分の過去について、楽しかったけど迷惑かけて親に心配かけて申し訳なかったぁ…と思い続けていた。

そして、結婚して人の親になりさらに「心配かけて悪かったな」と思うことが多かった。親からも子育てについても「だから言ったのに…」みたいな予言的アドバイス?ばかりで、だんだんと親の言う通り、親の肯定的意見がないと前向きに始められない、自分が少しずつ形成されていたきがする。

だから、親が悪い!という話にしたいわけではなくて、すべてのことは「意味があること」だったんだと、今思っていることを書いておきたい。そして、親という存在、特に母親は子どもにとって計り知れない影響力を持っていることが多い。だから、私自身が親として子どもを自分の心配心から縛るような親にはなりたくない、と強く思っている。どの親も、きっと愛しているかたこそ、そうなりがちだと思うから。

子どもができないことには手をかす、お金も出す、時間も可能な限り出し惜しまない、とは思っているけど、そのことと自分の自分の心配、自分の欲求をごちゃまぜにして子どもを束縛しない、と心に強く誓いたい。

なぜなら、私の母親はそういう今でもそういう母親で、心配かけてきた私が悪いと思ってきたから。

でもたぶんそれは違う。

心配をかけてもそれは悪くない(心情的には理解できるけど)。心配かけるようなことするなよ、という制限をかけると子どもはきっとその枠の中でしか大きくなれない、なろうとしないかもしれない。心配かけたくて、興味のままに進んでいるわけじゃない。母を困らせたくて、その選択をしているんじゃない。そのときは、そうしたかった、ただそれだけだ。バイクに乗ると、事故にあうリスクが高まる。深夜遊びは悪い人に絡まれるリスクが高まる。やっぱり私も親だから、リスクを下げたい一心はよーくよーく分かるんだけど。私自身には、そういう縛りを子どもにしないように肝に銘じたい。

親に心配してほしくて子どもが危険を選択するのは、愛情が不足していることが多い。
心配かけたいわけじゃないけど、やりたいことを自ら選び取って生きていくのは自律している証拠ではないのか?だから、危険性を知らせることはしても、その選択を否定することはしない。しかも影響力ある母親が「危ないからやめて」といえば母親を大好きな子どもは「母を悲しませたくない」となりかもしれない。でもこれは母親のエゴでしかない。

つい先日、Youtubeで10代のときに知り合った友達がバンドで有名になっている人たちの動画を観た。変わらない、当時と何も変わらないなぁ~って感じ。ただひたむきに、やりたいからやりたい音楽やってる、っていう潔さ。ついてきたいやつ、ついてこいみたいな媚びない姿勢。懐かしさと、Youtubeに知ってる人たちの動画がバシバシあるってことに不思議な感じを受けながら、すごく元気がでてきた。

好きなこと、好きなように、思いっきりやっていくとこうなるんだな。って育児の教えにも使えそうな教訓。私はどうだろう?好きなこと、好きなように、思いっきりやってるだろうか。

先日、地元で買い物中に10代の頃にすごくお世話になった、当時付き合っていた人で将来を誓い合った相手のお母さんにばったり会った。偶然。2年前、私が第2子を妊娠中にもばったり会って、そして今回会ったとき、付き合ってた相手がいよいよ結婚して子供をもうけたという報告を受けた。幸せになったんだ、と知って嬉しくてうれしくて、不思議な気持ちが続いてる。私から別れを切り出して、もう一生会えないと言われて友達に戻ることはなかったけど。幸せな日々を送っていることが嬉しかった。そして、相手のお母さんが一言「何一つ無駄なことはないってことだよね、本当に。」と話してくれた。それを聞いたとき、今までは自分の過去なんて親に心配ばかりかてろくでもなかった、と感じてきたけど。あの頃はあの頃で精一杯いきてきたんだったなぁ、と思い出してすごく救われた気持ちになった。

自分の過去を否定的な気持ちで思う必要なんて、全然なかった。

だって、過去がないと今はなくて、今の幸せな日々は過去の時間があってこそだから。
親を責めたいという思いではなくて…「心配」という正当っぽい言葉で、わたしは子どもを縛り付けないようにしようという教訓を得た。反面教師ともいうのかもね。

自分の過去を肯定できたとき、未来に向かって生きる活力がより一層湧いたように感じた。それと同時に、母親の影響力って恐ろしいから、その事実を心しておこうと思い改めた。子どもには自由に、自分の意思を、考えを、心を信じて生きてほしいし、親がエゴでそれを摘み取るのは最悪。

でもね、心配する気持ちはやっぱりよくわかる。親だもの。愛する子になにかあったら、取返しが付かないことになったら、、、でもその心も、自己愛かもしれない。本当に愛するということは難しい。崖から突き落とすほうが、愛かもしれない。