子育てと仕事と家事と…

3足のわらじを果敢に履きこなそうとする日々の記録

退職

昨日、長年お世話になってきた職場を円満退職した。
こんなに一つの職場で長く勤務したことはなかったから、というだけでなく
自分の人生にとって大きなきっかけ、変化、チャンス、人との出会いを与えてくれた。そんな職場だった。

翻訳会社を会社都合によって急に退職することになった1か月だったな。年末に沖縄へ帰省しているなか、履歴書を送っていた昨日までの上司から電話をもらい面接へ。1対5の面接にかなりビビった記憶だったけどね。即採用してもら、年明けからの勤務が始まった。

世間知らずな私だった。

目上の方への言葉遣いも、何もかも。すべてゼロから身に着けていく日々だった。アカデミックな世界にかかわるのは初めてで、右も左もわからない、ってこういうことだな。そう感じていた。上司は月半分は海外出張。部長だから、部長不在でも来客対応したりといろいろ気を遣う仕事だった。上司がよそからよく思われるよう、言葉遣い、身だしなみ、立ち振る舞いに気をつけるようになった。わたしの上司は幸い、お人柄がとても優れた人格者であり、お医者さんであり、キャリアもある。今から振り返って考えてみても、非常に恵まれたスタートだった。

3年くらいが経ち、周囲からも認知され、仲間もでき、楽しい日々を送っていたころ。業務に物足りなさを感じていた。それでも、私の周りは管理栄養士、一流大学院卒、語学堪能。実際にはそうではなかったのかもしれないけど、そのころの私には全員がそういうすべて揃った人たち、と思えていた。対する私は、中堅の短大卒で、栄養士。いちおう、フリーランスの兼業翻訳者ではあったけど、まだまだ駆け出しで自信もなければ、英会話力はとてもなかった。国際部署だったから、英会話必須だったのだ。

2011年に東日本大震災が起きた。

現地へ栄養ボランティアを派遣するため、職場では管理栄養士が集められた。栄養士ではだめだった。そのことが、私が管理栄養士を目指すきっかけとなった。「資格がないと人の役にも立てない」そう感じていたのだ。

まずは、実務経験。

短大卒が管理栄養士国家試験にチャレンジするには、実務経験が必要だった。勤務時間の規定もあり、まずは上司に相談し実務経験に認められるよう働き方を見直した。そんな頃と同時期に「バイトしない?」という声をかけていただき、専門学校での講師業が始まった。「短大卒の栄養士、栄養実務無し」というだけで非常に自信がなく、また生徒たちに申し訳ない思いだった。それでも、引き受けた、いただいた仕事なので、何とか形にするために相当勉強し、苦労していた。

時を同じくして、今の夫と出会う。

夫との出会いも、職場の友人がきっかけ。合コン的なものではまるでなく、夫からの私への第一印象は「記憶にない」レベル(笑)それでも、私が一方的に惹かれ、押して、付き合うことになったと思ったら、3か月でプロポーズ!夫はまだ25歳。私は30歳になる年だった。そして、同時に妊娠も発覚。怒涛のような日々だったけど、結婚式も無事に挙げることができ、職場の多くの仲間たちに出席いただき、上司にはご挨拶もいただいた。思い出深い。

第1子出産。

産休をいただき、産後半年で職場復帰。そしてその年の冬から、講義が始まった。結婚までも怒涛だったけど、その後もずっと怒涛の日々だった。慣れない育児、慣れない講師。なんだか、辛かった。育児が楽しめなかった。毎日が本当に精いっぱいで、記憶にない。

子供が2歳になり、講師業もなんとか3年目を迎え、実務経験も満了。初めての国家試験受験だった。完敗。1点足りず。そして、第二子妊娠。夫は長男なので、考え方は古いかもしれないけど、、、待望の男の子ってやつでした。しかしながら、2月に息子を出産した2週間後には国家試験を受験。そして、完敗。今回は3点足りずに不合格。2年連続不合格!講師業はそこそこ慣れてきた頃だったけど、1クラス1科目で始めた講義が、このころは4クラス3科目に増えていた。忙しすぎた。兼業翻訳もまったくやらなくなり(できなくなり)、翻訳からどんどん離れていった頃。

二人育児が怒涛の日々に拍車をかける。

2人目の出産後、産休中に翻訳業を再開。今後の働き方をいろいろ考え始めたのも、二人目出産が契機となった。「今年こそは合格しなければ…!」3度目の正直、という追い込まれた状況。毎年年度後期に講義が集中するスケジュール。もう限界を感じて、産休明け直後に出勤日を半分に減らす。

産休と同時に入ってきた人に仕事を奪われた形になった。自分の限界もありつつ、そんなことも感じていた。その子は、賢いがずる賢い。私はその子をうらやましかったのかな。とにかく嫌いだった。不幸を願うくらい(笑)。大好きだった上司も、その子にとられた!って感じていた。(どーんな発想なんだか…)産休明けると仕事がない、という話。よくあるかもしれないけど。ちなみに、その彼女は管理栄養士で、帰国子女のバリバリ英語完璧ガールだったんだな。大学もアメリカで学位をとって、文句なしの才女。負けていたのだ。すべて。だから、悔しかったけど、勝てないと思っていたんだと思う。だから、嫌いになったのかな。子供じみてる。

とはいえ、仕事は仕事ですからね。そんなことは言いませんけど。

で、出勤日数を減らしたと同時に、同じ部署の別部屋への移動を命じられた。このころ、辛いピーク。自分よりキャリアが?上の人に、大好きな上司もポジションも奪われた!完全に被害妄想してた頃。もうこの職場は辞めよう。新しい働き方を考えよう。そう思い始めたころ。気持ちは孤独だった。管理栄養士国家試験の受験プレッシャーもあったからだと思う。

そんな胸の内、夫にしか話せなかったな。夫は、さっさと試験に合格して次に進め!といつも励ましてくれていたような。

3度目の国家試験で、ようやく合格!!!勝ち取った。二人育児でも、Wワークしながらでも、合格したのだ。3度目だけど(笑)上司をはじめとする先生方、お仲間が合格祝いパーティーを開いてくれた。ホテルの豪華なディナーだった。夜景がきれいで、頂いたお花もきれいで、久しぶりの夜の外出で、なんだか緊張した。

試験を終えてから、仕事の状況がどんどん変わってきた。

翻訳を本格的に再開した。そしていろんなご縁をいただき、栄養分野でも翻訳の仕事ができるようになった。その2か月後には、これもご縁をいただき、別の機関にお手伝いにいくことに。そして、ここの機関がわたしの来年度の職場となる。翻訳でそれなりにやっていけそうな見込みが立ち、真剣に退職を考え始めた10月。新しくお手伝いに行っていた機関の先生から、フル勤務でこられないか?と打診を受けた。迷うところが多く、3~4か月お返事できずにいた。

それでも、最終的には家庭と仕事との両立をもっとも好条件でできる職場、という観点で判断した。それが、今回の退職だ。

ご縁とは、本当に不思議なもの。今まで想定もしなかった未来を、次々と運んできてくれる。これまでの人生、数えることが不可能な、非常に多くのご縁とご恩をいただいてきた。感謝しかない。そのご恩をどう返していくのか?私の人生で生きる目的はそこにある。世の中への貢献、というといきなり規模が大きくて、ぴんとも来ないけど。

ご縁をいただいたすべての人たちの人生が、より良いものになるように、その一助になりたくて、頂いたご恩を倍返ししたくて、それが自分の生きる糧。成長の種。

さあ。新しい場所を目指そう!私がもっともっと成長していけば、もっともっとご縁はつながり、ご恩をお返しできるんだと信じています。